2017年2月1日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(4-10)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。
第4回の10問を順次解説してきました。今回で完結です。


第4回第10問
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 「しもやまとばし」が架かっている川の名前は?
E 市電「磐舟橋」停留所がある道路の名前は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 大阪市高津尋常小学校
B 国立文楽劇場
C 西高津新地
D 道頓堀川
E 千日前通

高津小学校は、明治4年(1872年)南大組第二大区十二番小学校として開校し、明治20年(1887年)大阪市高津尋常小学校に改称しました。明治45年(1912年)南の大火により校舎全焼。昭和9年(1934年)室戸台風で校舎が倒壊しました。昭和20年(1945年)3月大阪大空襲で校舎が全焼し、昭和21年(1946年)大阪市大宝国民学校(大阪市立大宝小学校)に統合され休校となり、昭和27年(1952年)大阪市立高津小学校として復興・再開校。昭和45年(1970年)に現在地(中央区高津3丁目4番21号)へ移転し、その後旧校地の跡地はしばらくはフェンスに囲まれた更地となっていました。

その後、国立文楽劇場が4番目の国立劇場として昭和59年(1984年)に開館し、大小2つの劇場と展示室などからなり、大ホール(文楽劇場)ではユネスコ無形文化遺産の人形浄瑠璃・文楽の公演を中心に演劇や舞踊などが行われています。小ホールでは奇数月に落語・漫才・浪曲などの興行「上方演芸特選会」が開かれ、東京の国立劇場における国立演芸場的役割も担っています。設計は黒川紀章氏、第2回公共建築賞最優秀賞を受賞しています。独立行政法人日本芸術文化振興会によって運営されています。

パノラマ地図に描かれている「いはふねばし」が架かっている堀川は高津入堀川で、江戸時代に西高津新地の開発に伴って開削されました。
1733年(享保18年)に道頓堀の南東の西成郡西高津村領内において西高津新地の開発が始まり、翌1734年(享保19年)に上流側約800mの区間が開削されました。

1740年(元文5年)には高津入堀川の堀止付近の東成郡天王寺村領内に天王寺銭座が設置され、翌1741年(寛保元年)から短期間ながら銅銭が鋳造されていました。天王寺銭座廃止と同年の1745年(延享2年)に西高津新地1~9丁目が成立し、大坂三郷に編入されました。

1752年(宝暦2年)になると、難波入堀川と難波御蔵の先例に倣って、江戸幕府が天王寺銭座跡地に天王寺御蔵(高津新地御蔵)を設置しました。しかし、多湿で米の痛みが早かったため、天王寺御蔵は1791年(寛政3年)に廃止され、難波御蔵に新御蔵が増築されました。

入堀で汚濁が激しく不衛生だったため、明治に入って難波入堀川と連結されることになり、明治31年(1898年)鼬川まで延長開削されました。西流および北流箇所はもと鼬川の流路を利用していますが、延長開削工事以降、難波入堀川との合流地点(現・阪神高速1号環状線なんば出口)より上流を高津入堀川、下流を鼬川と改められました。その後昭和43年(1968年)に埋立てられました。

浪華名所獨案内の高津付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の高津付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の高津付近(今昔マップ3より)


第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/11/blog-post_24.html

0 件のコメント:

コメントを投稿