2016年11月23日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(3-9、3-10)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。今回は第3回の第9問と第10問を合わせて解説します。

(第3回 第9問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「なにはばし」が架かっている川は堂島川ともう1つの川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪ホテル
B 東洋陶磁美術館
C 大川(旧淀川)の河川内
D 土佐堀川

 江戸時代後期になっても中之島は現大阪市中央公会堂の少し東まででその上流は大川でした。

 ロイヤルホテル新館の開業を記念して出版された随筆集「大阪讃歌」の中に宮本又次先生が書かれた「大阪ホテル」があります。60人の執筆者のうち何人かはロイヤルホテルの前身である新大阪ホテルの想い出などを綴っておられますが、大阪ホテルについて詳しく書かれているのは、この一編だけでした。
 宮本先生によると、大阪におけるホテルらしいものの最初は明治21年開業の自由亭で、その前身は西区本田にあった欧風亭という川口居留地の外国人専門の欧食料亭で旅館も兼業していました。明治21年に市有地であった中之島公園の地にホテルとして新たに自由亭が建てられました。和洋両様の二棟を有し、日本館の方を「洗身亭」となづけた。鉾流橋の南詰め東手で、木村重成の碑の西、のち大阪銀行協会があったあたり、今は関市長の銅像の建っている所と思われるとあります。
 明治32年に株式会社大阪倶楽部が組織され、自由亭の西館洋式の部の業務を受け継いで、大阪倶楽部ホテルと称しました。ところが、このホテルは明治34年11月に出火し、全館を焼いてしまいました。 その跡地には、明治35年8月、木造で外壁はコンクリート塗り、客室30を有する純洋式の大阪ホテルが新築されました。明治36年開催の第5回内国勧業博覧会に間に合うよう小路を急いだそうです。火災を免れた隣の日本料亭(旧洗身亭)をも買収してそれを大阪ホテル東店としました。
 当時、日本の五大ホテルとして、東京の帝国ホテル、箱根宮の下の富士屋、京都の都ホテル、日光の金谷ホテルと並び称されたそうです。
 大正8年には名古屋ホテルを買収して支店とし、大正9年には今橋西詰めにあった浪速ホテルを合併して支店とし、大正10年には今橋ホテルと改称しました。
 しかし、大正13年11月、中之島のホテル本店より出火、再度全焼するの悲運に見舞われます。しかもこの敷地は公園地帯になっていたので再築の許可を受けることができず、今橋ホテルを本店にして、中之島から消え去る運命になりました。今橋ホテルを改称した大阪ホテルは昭和16年2月まで営業を続けました。

 大阪市パノラマ地図は、大正12年12月印刷、13年1月発行ですので、地図に描かれている大阪ホテルは、その年の11月に消失したことになります。

 その後、真に大阪を代表するにふさわしい大ホテルの計画が進められ、大阪財界の要望を結集して、ついに昭和10年に豪華なる新大阪ホテルが出現することになります。そして、戦後に大阪グランドホテル、大阪ロイヤルホテルなど中之島の地に超一流のホテルがあらわれますが、これはかつて明治大正期に中之島の地にあってきわめて異色ある役割をはたしていた旧大阪ホテルと直接の関係はないにしても、非連続の連続と考えらるべきもので、その先駆と考えてよいであろう。と宮本先生は書いておられます。


(第3回 第10問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 豊國神社はその後どこに遷座されたでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 豊国神社
B 4代目大阪市庁舎第1期部分
C 唐津藩大坂蔵屋敷
D 大阪城内


 豊国神社は当初、中之島の最東端にあり、大阪市中央公会堂の建設の際にパノラマ地図の位置に移転、4代目市役所で大阪城内に再移転しました。

 豊国神社は、明治12年(1879年)11月 京都・豊国神社大阪別社として創建。当初は大阪府北区中之島字山崎の鼻(現在、大阪市中央公会堂がある地点)に鎮座しました。大正元年(1912年) 中之島内で移動、現在の大阪府立中之島図書館西側へ遷座されました。
 大正10年(1921年)、京都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神社が訓読み(とよくに)で、豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、当社は音読み(ほうこく)で、豊臣秀頼、豊臣秀長も配祀しています。
 現在の鎮座地である大坂城二の丸は陸軍省の所管だったため、現在の大阪市北区中之島においての創建となりましたが、のちに城内(現・大阪城公園)へ遷座されました。
大阪市パノラマ地図をよく見ると、大阪ホテルの前の通りに鳥居が描かれています。
 江戸時代の中之島は、浪華名所獨案内を見ると、ナニハバシの手前までしかありません。先端部に「山サキ」とあります。この先端部に豊国神社が遷座していましたが、公会堂の建設の際に図書館の西側に移動しました。鳥居があるのはその名残かもしれません。

 大正3年の地図に、難波橋と大川橋の2つの橋が架かっていますが、大川橋が現在の難波橋です。以前の難波橋は現在よりひと筋西の難波橋筋にかかっていました。市電敷設の際にひと筋東の堺筋に移動しましたが、名前は難波橋を引き継ぎました。

浪華名所獨案内の中之島東部
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の中之島東部
大阪市内詳細図(大正3年発行)の中之島東部
大阪市街大地図(大正14年発行)の中之島東部
明治42年、昭和4年、昭和42年、最近の地形図の中之島東部(今昔マップ3より)

第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

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